さんぱちについて

 
 


さんぱち先生の成り立ち


第1章


 2001年4月に大学に入学した笹生少年は、腹を壊してオリ合宿に行けないという大失態を犯してしまった。「まずい、このままでは友達ができずに4年間が過ぎてしまう…」そう感じた笹生少年は、なんとかしてクラス(文三8組)に馴染む方法を模索していた。そこで出会ったのが、F-NETのホームページであった。

「そうだ、クラスでフットサルの大会に出れば、俺も仲間に入れるはずだ」そんなヨコシマな気持ちから生まれたのが、クラスチーム「チームさんぱち」であった。チームさんぱちには、後にさんぱち先生初期メンバーとなる福田、大石がいた。

 チームさんぱちを通じて無事クラスに馴染んだ笹生少年は、サッカーサークルSPERANZA FCに所属する。そしてそこで、さんぱち先生初期メンバーとなる穂積、村野と出会う。彼らはチームさんぱちのライバルチームとして「理一25組!森山先生!」というクラスチームを結成した。そこには同じくさんぱち先生初期メンバーとなる藤田、窪島がいた。ちなみに、森山先生には現在某局に勤める某女子アナウンサーも所属していた。

 幾度か対戦を重ねたチームさんぱちと森山先生。だが年が明けた2002年初頭、福田が重大な提案をする。「チームさんぱちと森山先生で合併して御殿下カップに出てみない?」こうして2002年1月頃、「理一25組!さんぱち先生!」が誕生したのである。

 当時の御殿下カップは、東大生限定の大会であった。そのため、東大内のサッカーサークル所属者ばかりから成るさんぱち先生は、快進撃を続ける(といっても御殿下カップで優勝できる程度で、当時は学外のチームのレベルなどまるで興味がなかった)。2002年2月の御殿下カップで初優勝した後の飲み会では、たった1時間でお会計が一人3855(サンパチゴーゴー)円に達した。





第2章


 メンバー全員が2年生になった2002年4月、F-NETから一通のメールが届く。「関東大学リーグに出てみませんか?」さんぱち先生のメンバーたちは、気楽な気持ちで出場を決める。完全にサッカーの延長として、サッカーをうまくなるためにフットサルもやってみる、そんな気分であった。この頃、スペの中根、倉田尚も加入(以上、全員同学年)。

 ちなみにスペ名義で参加した2002年5月のカレッジフェスタ決勝大会ではZOTTと対戦した。当時の大会パンフレットには各チームの意気込み的なものが記されていて、ほとんどのチームが「王者ZOTTさんに勝てるようがんばります」的なことを書いていたが、全く無知なさんぱち先生は「ZOTT?何それ?」的気分であった。結果は、0-2。意外とやれた。

 初めて臨んだ関東大学リーグ。さんぱち先生は2部からのスタートだった。当時は1部が10チーム、2部が8チームで、1部の下位4チームと2部の上位4チームで参入戦を行うというレギュレーションであった。

 迎えたさんぱち先生のデビュー戦の相手は、F.C. UNION。リアルコートで初めて行う試合であり、全くパスがつながらない。結局藤田の2ゴールで2-1と逆転勝ちするが、メンバーの頭にはモヤモヤが残る。「サッカーのほうが楽しくない?」全くフットサルに馴染む気のないさんぱち先生は、ロングボールを多用するサッカースタイルでリーグを戦った。当時スーパーリーグのPREDATOR(現バルドラール浦安)に所属する某選手と対戦した際には、試合中に「サッカーかよ!」と罵られる始末であった。

 が、その一方で一部のメンバーは、11月に行われた全日本選手権東京都予選、いまだに伝説として語り継がれるCASCAVEL(現ペスカドーラ町田)対FC VENGA(現カフリンガ東久留米)の試合を観戦し、「フットサル」への関心が高まった。

 そんなこんなで、2002年度は4位で参入戦に回った。参入戦の相手は、1部7位のGOONY。格上の相手に後半半ばまで0-0と健闘するが、後半に笹生が鼻を骨折し、リタイア。結局、「笹生がいなくなった」というよりも「守備の要の中根がGKをやらざるを得なかった」ことが原因で敗れ、1部昇格ならず。

 また、2002年末の御殿下スーパーカップには、開催地枠として東大選抜という枠が与えられた。バケモノたちが集うこの大会には、ただのさんぱち先生だけでは勝てないだろうと感じ、サッカーサークルの主力級をスカウトした。このときスカウトした倉田幸、上原(以上2年生)、古館、木村、三矢(以上1年生)が、後にさんぱち先生で戦うこととなる。結局この大会は、ZOTTに1-5、BRBに0-1、PREDATOR(現バルドラール浦安)に1-5と3戦全敗であった。





第3章


 御殿下スーパーカップで「本物」のフットサルに触れたメンバーは、本気でフットサルに取り組む決心をする。目標は大学リーグ1部昇格である。春頃、宍戸、深山、李が加入。ちなみにさんぱち先生として初めて決勝大会に進んだ2003年春のカレッジフェスタは、森のくまさん(現FUGA MEGURO)に0-1で敗れ、予選敗退であった。

 2003年度大学リーグ2部は、8チーム2リーグ制で、各リーグ1位が自動昇格、2位と3位が参入戦に回るレギュレーションであった。古館と村野のスーパーゴールでMORIICHI相手に奇跡の同点劇を演じるなど、さんぱち先生は快進撃を続けた。そして迎えた2003年12月25日の滝野川体育館決戦。この日日大ファンターズに勝ちさえすれば優勝であった。が、この試合に3-8で敗れる。後に言うサンパチ先生の悲劇である。余談だが、この日の最終試合、1部1位のZOTT対2位森のくまさんの試合は、大学リーグ史に残る名勝負であった(4-2でZOTTの勝利)。この試合のオフィシャルを完璧にこなしたのが、完敗のショックを微塵も感じさせない、他ならぬさんぱち先生であった。

 また、2003年度も御殿下スーパーカップに開催地枠で参加。このとき、岸、曽根、白井(スーパーカップ当日はブッチ)が加入した。なおこの大会は、INDEPENDENCIA(SHARKS)に3-4、高西CRUSHERS(現アルティスタさいたま)に1-5で敗れるも、最終戦のミリオネア横浜戦で3-2の勝利。最終戦では、相手パワープレーの隙をついてロングシュートを放った曽根が、「ガッツポーズ早っ!」(by権田FCの人)事件を起こした。結局このシュートは入らず。

 年が明けて2004年3月。サンパチ先生の悲劇によって3位となったさんぱち先生は、参入戦に進出した。初戦の相手はA組2位のTOKYO FAMILY。この試合に5-3で勝利し、1部11位のTOKAI BOYS戦を迎えた。開始早々に先制を許すも、直後に村野のスーパーゴールで同点に追い付き、最後には曽根のロングシュートも決まって5-3の勝利を納め、悲願の1部昇格を果たした。この年の春には、練習試合に人が足らず、サンデーの加藤を召集。そのまま加入となった。

 ちなみに2004年1月発売の「フットサルマガジンピヴォ!23号」にて、さんぱち先生が雑誌デビューを果たす。オスカーに色々習った。





第4章


2004年5月、長年夢見てきた大学リーグ1部の開幕戦を迎える。相手はWOOER。先制を許すものの、次々とゴールが生まれ後半半ばで5-1とリードを広げる。だが「さんぱち先生、衝撃の1部デビュー」の文字がちらつく頃、悲劇は起きた。焦りからかファールを重ねてしまい、次々と第2PKを献上してしまう。こぼれ球を次々と押し込まれ、奇跡の逆転負け。まさに衝撃の1部デビューであった。翌第2節のDiavolo戦に引き分け初の勝ち点を獲得するも、その後は連戦連敗。しかし8月のMORIICHI戦では、1-2の時点で村野が退場し4人となった状態から宍戸が同点ゴール、第2PKを与えるもその後のカウンターから穂積が逆転ゴールと、劇的な初勝利を挙げる。

 2004年夏のカレッジフェスタでは初の決勝大会予選リーグ突破を果たす。ベスト8でZOTTと対戦し、岸、加藤のゴールで2点リードするも、 PK負けを喫した。しかし直後の大学リーグ権田FC戦では、怪我から復帰し大学リーグ初出場となった白井の2ゴールで、強豪相手に大きな勝利を納めた。

 秋頃、加藤の父親に頼んで新ユニフォームを購入する。それがマカフィーユニである。新ユニフォームのデビューとなった12月のPierrot戦では、この日誕生日の期待の新人・前迫もデビュー。も、ディフェンスの距離が遠いという理由からプレーイング2秒で交代を果たした。この試合は2-1で勝利。この年には当時初の日本代表に選ばれ、シンデレラボーイと呼ばれた高橋健介選手(現カハセゴビア)のいるGAZILにも勝利を納めたが、森のくまさん戦では稲葉洸太郎選手(現バルドラール浦安)、北原亘選手(現名古屋オーシャンズ)、星翔太選手(現FUGA MEGURO)らにボコられた。

 年が明けて2005年春のカレッジフェスタも決勝大会まで進出し、予選リーグも突破した。が、ベスト8で関東リーグ若手選抜と言われた RoCoKoCoに0-8で敗戦。後に言うゼロパチ先生の悲劇である。またこの時期には、さんぱち先生初の遠征を行う。ピヴォチャン山形予選に参加し、関東のフットサルを見せ付けるも、準決勝で敗れた。また東京都大学カップも、2次リーグで敗退した。

 この年は、さんぱち先生として初めてサッカーの総長杯にも参加した。F-NETの鈴木ヨウジロウやDiavoloの成田、今津らが助っ人として加入。あまりの豪華メンバーに、初戦の対戦相手のクラスチームが棄権する。練習試合となったこの試合では、11人で見事な旋回を披露するが、結果は0-0であった(記録上は不戦勝)。準決勝のツーパーズ戦を白井のファー詰めで制して、臨んだ決勝戦の相手はサンデーキッカーズ。村野ら4人ほどが両チームを掛け持ちしており、彼らはサンデーでの出場を選択した。出場拒否し続けた岸を無理矢理出場させるも、さんぱち先生は人数が足りず、惜しくも敗れて準優勝であった。





第5章


 2005年春には、留年して暇な仲野が加入。2005年度大学リーグは、優勝した森のくまさんに0-0で引き分けるなどそれなりに安定した結果を残すも、優勝争いに絡むような成績ではなかった。この年の6月頃の権田FCとの練習試合に人が足らず、スペの林と松崎を召集。そのまま加入となった。

 この年のハイライトは、全日本選手権とアサヒ飲料杯であった。8月にアサヒ飲料杯施設予選@所沢フットサルパークと、全日本選手権施設連盟予選@FUNフットサルクラブを次々と突破し、大学リーグ関連以外で初の晴れ舞台を迎える。

 10月に味の素スタジアムで行われたアサヒ飲料杯決勝大会は、前迫が味の素スタジアムのトラック1周全力ダッシュしたものの、初戦のフットサル世田谷戦に敗れ、予選リーグ敗退となった。

 翌週には、全日本選手権東京都予選SHARKS戦を迎える。相手の御家芸である前プレを回避するため、「フットサルをしない」作戦に出たのがうまくはまり、コーナーキックから岸のミドルシュートで先制する。が、ここから地力の差が出て関新選手(現湘南ベルマーレ)に4ゴールを連取される。最後に岸のミドルで1点を返すが、2-4で敗戦。

 翌週には予選リーグ残り2試合が行われ、GK白井の活躍もありBRBに5-1で勝利。最終戦のZIBRALα戦もGK穂積の活躍で0-0で終盤を迎える。同点なら勝ち点4で2位確定であったが、あくまで勝ち点6を獲得してワイルドカードでの予選突破を狙い、パワープレーを敢行した。が、それが裏目に出、0-1で敗れた。





第6章


 2006年2月頃、宇恵が加入。直後には前年に引き続きピヴォチャン遠征イン仙台を敢行する。大会前日の観光は完璧であったが、大会は準決勝でDEAR BOYSに0-3で敗れ、予選敗戦となった。

 2006年度を迎え、土井、神崎、藤井、増本が加入した。またこの年から、東京都連盟大学リーグにも参加するようになった。

リーグは相変わらずぱっとしない成績だったが、この年は初タイトルを獲得する。8月に行われた、神戸大学フットサル部FORCAの主催する「カレッジフットサルフェスタin神戸」に優勝したのである。予選リーグでは、松崎の半径の大きさに付いてこられる相手がおらず、また仲野の献身的な走りに付いてこられる相手もいなかった。藤井のヌルヌル作戦に付いてこられる味方もいなかったが、初日の予選リーグを無事1位突破した。ちなみに最終戦は、神崎の予約したスーパーホテルのディナー券を利用できる時間が迫っていることに気を取られ、引き分けに終わった。翌日の決勝リーグは、神戸大フォルサと実質の一騎打ち。フォルサ戦は前迫のオウンゴールで先制を許すが、白井のミドルで1-1の引き分け。最終戦で2点差以上の勝利で優勝という場面で、藤井や宇恵、増本らが奮闘し、結局5-1で勝利し、優勝を果たした。さんぱち先生史上もっともキモく、もっとも寒く、もっともフィーバーした2日間であった。



文:笹生心太


※文章内の記述は2008年9月現在のものです

 

概要





・正式名称

さんぱち先生


・結成

2002年1月

詳細は左記参照


・母体

東京大学・大学院


・所属

F-NET 関東大学フットサルリーグ1部

東京都フットサル連盟 東京都大学フットサルリーグ


・ユニフォーム

 FP

1st 青/灰・青・青

2nd 赤・赤・赤

 GK

1st 白・灰・白

2nd 黄・黒・黒



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柄澤 史也






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